伊那美術協会89年の歩み

大正13年 1924 「黒百合会洋画展」設立 牛越先生、武内政和、中村正見、他7名
昭和 6年 1931 「集団ソリッカ協会」設立  小松宇太郎、松尾紀男、塚越栄一 他
                 顧問 中村不折、中川紀元
昭和 8年 1933 「伊那美術協会」設立  会長 伊藤真之助
「黒百合会洋画展」「集団ソリッカ協会」合体
昭和30年 1955 「伊那美術協会」 会員30名 会長 佐藤雪洞
昭和32~34年 1957~1959 「伊那美術協会」 会長 安川 保
※日本全体=抽象画全盛期
伊那美術協会=日本画 、水彩画が主流
昭和40年代 1965 勉強会--講習会が始まりグループ゚展が発足し作品の大型化がすすむ    
 S47  三彩展(如月会) 発足 S48 虹の会(スリーMの会)発足
 S48  潮陽会発足
昭和50年代 1975 中央展出品始まる
「伊那美術協会50年誌」発行  会員138名
安川保、白鳥弘、熊谷茂雄、北原昌、瀬戸団冶、中村竹男が活躍
50年代のグループ゚展発足
S52 アカシア発足(箕輪)  ・ 伊那女性展(翔展) 発足
S59 虹の会発足
昭和60年代 1985 公民館活動、 教室が盛んになる
モチーフの多様化 ・ 写実-----具象------抽象
平成 6年 1994 「伊那市民美術会 70年誌」発行 会員203名
平成12年 2000 伊那美術協会と信州美術会、伊那支部が合併する。
伊那美術協会の中に伊那支部を置く形で組織の統一をする。
平成13年 2001 本年より平面作品 1・2部は合同審査とした。
平成15年 2003 本年より審査員の選考を各部の投票とした。
平成16年 2004 第80回記念伊那美術展より高校生を対象とした、ジュニア部の募集を始める。
29点の応募あり。
     
平成17年 2005 伊那美術協会のホームページを開設する。
以後、更新・管理等も継続していただき現在に至る。
平成18年 2006 「権兵衛トンネル開通記念展」として、木曽方面より招待作家として、11点
出品していただき展示し、交流を計った。
     
平成20年 2008 伊那支部より信州美術会 副会長に柴田久慶氏就任する。
平成23年 2011 本年より審査員の選考を各部の投票を「参考」にして選考するに変更する。

 

 

伊那美術協会五十年誌から  
安川 保

眼をとじて、じっと郷土なる伊那谷の景観に思いをこらせば、土民の唄にある東仙丈、西駒ヶ岳、間を流れる天竜川」の大景観がまぶたにうかぶ押し迫るような段丘また段丘の裾を縫って、南へ南へと流れ行く天竜の銀色に輝く美しい光景である
郷土がある祖先の生活のしみこんだ土壌がある。そこに歴史があり、文化の淵源がある。我々伊那美術協会の延々たる50年の歩みを、そこに照らして考えたいと思う

 黒百合会のころ

 大正の末期、文化不毛の地のようにわれていた伊那谷にも、近代思湖の波はいやおうなく押し寄せて来た新しい時代感覚に触発された先輩達の創意により、同志をつどい、グループを結成し、積極的に合評会写生会、展覧会へと美術運動が推進されたすなわち黒百合会の発足である源流の湧出であろうに一度の持寄り合評会は、いつも古町公図(今の伊那公園) の望仙閣で行われた。

 一本立てて夕食を共にしての互評はまことに楽しい時間だったしかしときには酷評を受けたある教育者が俺は画家ではない教育者だ、と色をなして叫んだこともあった
展覧会を催すにも、資材や会場で随分苦労をしたパックに小学校の白いカーテンを借りたこともあった。会場も町の商品館や新聞社の階を借りたりした。そんな苦労やぶざまをみかねた時の郡長さんが、上伊那郡役所の大会議室を無料で貸してくれることになったはじめてまとまった展覧会らしい展覧会を催すことができたのである理解あるその郡長さんは、今はでに故人と思われるがここに改めて感謝の意を表したい。

 上伊那図書館が、旧伊那実科高等女学校の焼跡に建設されたのは、昭和五年秋であった。その開館祝賀会には、黒百合会の全会員が作品を出品して壁面を飾り祝意を表した。それ以後の展覧会は、その緑に囲まれた近代建築物の講堂で催すことができることになったこれまでに約六年である。その間十二回の苦しい会を重ねて、ようやく本拠ができた思いだった。
会場の心配はなくなり、会員もだんだん増加して、会の運営も応軌道に乗ったかのようにみえたがしかし、そこに嵐が待っていた。
翌昭和六年春のことである黒百合会展覧会の会期中黒百合会展を観てと題して松尾紀男氏のきびしい批評文が新聞に連載されたそしてその直後、黒百合会とは全然別に都会から帰郷した二、三人の画家を中心としてソリッカ協会が意気揚々と発足した昭和六年その第回展覧会を催したが、さすがに都会文化の洗礼を受けた絵は本格的であり斬新であり、とかく地方的で甘かったであろう黒百合会にとっては大きな刺激だったと思うしかるにそのソリッカ協会が第二回展を催したのみで行きみの状態になり、やが黒百合会員の引き抜き作戦に出るに及んで、同会の対立関係を深め多少の感情をもはらむに至ったこれは何んとかせねばならぬと考えたソリッカ会員もそのほとんどが元黒百合会会員であって、同じ郷上に生まれ育った同志だからである

 伊那術協会となりて

 昭和八年秋、両会は話し合って介流し、一本の流れとなってその名も伊那美術協会と改め第一回展覧会を開催し、文字どおり伊那谷美術運動の母体となり培土となり、更に幾多の流れを抱合しつつ延々と流れ続けるのである
昭和十二年頃であろうか、日支事変が勃発し次第に戦争は拡大して、昭和十六年末には大東亜戦争に進展し、戦時色はいよいよ濃厚となりあわただしい世の中になって行った生活物資さえ統制へ統制へときびしくなったまして美術文化など全く絵そらごとに落ちた。材料は乏しくなる方でプロ作家にとっては重大な問題だったそれにもまして寂しいことは酒の乏しいことだった。にごり酒を探して道を遠しとせずであった。
しかし、そうしたやりきれぬ思いの反面に、都会に集中していた文化人達が、戦争の危険を避けて地方地方へと疎開を余儀なくされたことは、地方にとっては思いがけぬ幸であそれは伊那谷とて例外ではない中川紀元先生他多くの先輩の先生方が疎されて来て、この地に生活を持たれたのである先生方の生活に直接に触れることができることは大きな喜びだった。それは斬新なる都会文化の地方への移でもあって急に谷が明るくなったように思われ、その影響はいろいろに大きかたと
昭和二十は、日本国民にとって悲しい年だった信じていた神国日本が朝にして消え去り、敗戦色色に塗りつぶされてしまった人々はとまどったすべてが灰になり無に帰したかのように思った。しかし、国敗れて山河あり、われわれの心なるふるさとは何んら変ることなく雌然としてそこにあったのである会は世の慌しさに抗して敢然としてたゆまず年中行事を続けていたのである。かくして、昭和十九年に十周年を迎え得たのであるが、戦争をはさんでの約十年、人心喧噪時代を深刻な困苦に堪えぬいて、協会の歴史を守り得たことは、会長伊藤真之助先生を主柱としての同志会員の結束精神の賜であろう。記念式の席上、協会は伊藤先生の長年の功紡に対し、感謝状を贈呈してその意を表したが、うにそれは先生人のお祝いでなく、同志会員みずからへの讃歌でもあったと思う

 その後世情は安定し基盤のできた協会はいよいよ順調に進んだ会長は伊藤真之助、佐藤雪洞川保、松井緑、千村甫、伊藤隆、新村束鳳、そして中村竹男へと引き継がれその問、昭和十九年には四十周年を、昭和四十九年にはついに五十周年を迎えることができたのである今や会員は百五十名になんなんとし、例年の展覧会は大きな会場にはちきれんばかりであり、設営者を悩ましている状態である嬉しい悲鳴ともいうべきであろう
また協会はその重要なる目的として、この五十年間年中行事として美術展覧会、絵画講習会、彫塑講習会を開催して地域の啓発に力を注いで来た。そのために招聘されて来伊した有名大家の先生方も数多い特に昭和十七年には、東洋の神経とも称される文芸批評家、芸術院会員小林秀雄先生を招時して美術講演会を開催できたことは天下の耳をそだてたことであろう先生のご好意に対したこれを強力に推進してくれた伊沢幸平氏の終始変らぬご好意に対し、心からお礼をし上げる次第である

 こうしてこれら協会幾多の事業に対し、かげになり、ひなたになりして常に強力に理解あるご協力を示して下さった上伊那教育会に対し、深甚なる感謝の意を表し、併せて今後のご鞭健をお願いしたい
かくして諸条件に恵まれて近年に至り、会員個々の活動も活発になり、個人展、グループ展等も頻繁に開催され、特に戦後派青年の台頭により美術人口も急増し、生気を帯びて来た。中央画壇への進出も年ともの上昇しているようである。よき時代と言うべきだろう。
協会と共に生きて来たこの五十年を回想するとき、うたた感慨なきを得ないものである。創時代の先輩達はもとより、その他多くの画友の去就をしのび、その人達の貴重な足跡を、そして時の流れを事でも多く伝えたいものと心はあせるのであるがいかんながら協会自体にはその記録が乏しい。特に日支事変の発端の頃から戦後の沿乱が応治まる昭和十七年頃まで約十五ヵ年間には記録らしい何ものもないのであるが、それはやはり慌だしい戦時色の映であうと思う各白が生き抜いていくのにせいいっぱいではなかったろうか。しかしながら昭和十八年頃からは協会の役員構成も改められ年々の事業報告、会計報件等か詳しく綴られているそれはなかなか大変のものである

その記録を全部年毎に掲載することはいたずらに紙数を増やすものと考え、特に十周年、四十周年、そして五十周年前後に限って取り上げ、その年の詳細を掲げることによって、長年の経緯を推察してもらうことにした

 顧みれば、近代日本のれいめい期に天下に名をした坂本天山、伊沢修、中村不折、池上秀畝、ほか数多くの偉大なる諸先生を輩出した歴史あるこの郷土に、われ等もその生を得たことをまことに幸福と思い感謝するものであるが、そのすばらしい時代を引き継いで、われ等協会員たるものこの五十年をいかに生きたるや自問せざるを得ないものである

 歴史を知ることこそ明日への発展の出発点である。今回伊那術協会が五十周年の記念事業として五十年誌の編纂を企画された趣旨もそこにある。厳然としてある五十年の歴史、時と歩いて来たはずの足跡をその端たりとも正確に伝え得るならば喜びこれに過ぎるものはないここを出発点として、次に続く若人の確かな歩調を期待して止まない